仕事をやめました

2024年12月25日

ある会社の情シスをやっていました。しかしこの度退職を決心して退職しました。
長い事何度もやめようか悩んでいましたが、ようやく決心がつきました。退職に向かうにつれて、自分というものを深堀りし、なんのために働き、どのような働き方を美しいと思い、どのように有りたいと願ったのかをとても良く考えた時間になりました。

情シスとしては、経験的にはあんまり多くはなかったかなと思っていますが、レガシーシステムが一切ないためクラウドファーストの運用管理を経験できたり、構築できたことは時代と合っていて面白かったかなと思います。AzureAD(現:ID)や、Intuneによる管理を体験できたことは、今後もしまたエンジニアとして運用管理をする際に、着想を支える経験になると思います。運用管理をするのであればですが。

なぜ辞めるのか

仕事に対する哲学は、会社員それぞれに持っているものだと思います。単に生活のため、夢を叶えるため、時間つぶしのため、お金をたくさん得るため、人や社会とのつながりを保つため、名声を得るため、欲しいスキルを得るため。

大小さまざまで、優先度も人によって違うものです。そして、多くの人が一つではないでしょうし、仕事を続けていく過程でこれらの要素が入れ替わったり、出てきたり、消えていったりします。人との関わり合いの中で影響を受けたり与えたりすることで、それは自分という絵の具の溶けた水の中に、一滴ずついろいろな色を足していく作業にも思えます。

自分はどうだったのか

さて、もう完全に日記になってしまいましたが、一つ自分にとって働くとは何だったのかを考えてみたいと思います。私は仕事をするうえで、優先度や目的は都度変わってきました。しかし根底に流れるのは「自身の存在価値そのものを確認するため」というものが根底に流れているのではないかなと思います。そしてそれのためには「縁」というものの存在を強く意識するきっかけとなりました。
工学系を進んできた関係で、縁というものはあまり考えたことがなかったのですが、縁を切り口にしてみます。

最初の縁

最初の縁は、多くの人がパターンにハマると思います。純粋に給与の金額だったり、労働条件だったり、福利厚生、会社のネームバリュー、異論は認めますが、これらに大多数がハマってくるものだと思います。志望動機なんて、本当にあれば運がいいぐらいで、後付、こじつけなんでもござれ。当然その志望動機を書いたり考えていたりするうちに、「自分を本当にそう志望したと感じさせる言霊の力があることは考慮する必要があるとは思いますが。でも、大体が切り口はそういうところだと思います。いわば、自分本意なわけです。会社の外にいて、会社自体はブラックボックス。自分という人から見た、会社という真っ黒な球体の、自分なりの視野でしか見れないので当然といえば当然ですが。いや真っ黒というのはブラック企業ということではなくて、中身がわからないというところです。中身のわからないものとの縁とは、そういう表面的なものでしかないといえるでしょう。
少なくとも、私はそう感じています。

中期の縁

入社して慣れてくる頃、毎日の仕事に迷いがなくなってくる頃、この頃から中期の縁は顔を出してくると思います。働く目的や、仲間、仕事内容、顧客など、意識する相手が会社の表面的なところではなく、人に傾くことだと思います。価値観を共有しあい、目標を共有しあい、高め、高められ…となれば幸いですが、必ずそうとも限りません。見る対象が、そこで働く人々に変わります。会社として解像度が低かった視点が、解像度が高まり、会社という球体の中にある小さな点を見たり、点の集合体を見たりするようになります。そことの縁を結び、時には切られたり、切ったりしていくことが多くなります。ここが長く続けていけるかどうか分かれ目となる部分です。

私は、そこでいろいろな人たちとの縁を感じ、働いていました。しかし、その縁はまやかしだったり、ごまかしだったり、その場しのぎだったりして、次第に薄いものに見えるようになりました。

自分の存在意義とは?と、強く思う日が増えていきました。何のために、誰のために働くのかということを考える時間が増えていきました。

末期の縁

末期の縁はどちらかというと中期に淘汰された縁の中で、残った仲間との縁を思う時期になりました。自分も耐えている。戦っている。それと目的を一にする仲間との縁を感じながら仕事をしていました。会社との縁は、だいぶ薄いものになったと感じました。しかし、仲間がいるから、支えたい、支えてくれる仲間がいるから残っているような状態で、会社との縁は結局、成長することなく点と点を結ぶ線が少なくなり、残った線が強くなるような状況でした。最初にあった、労働条件や福利厚生などはどこへやら。そんなものも魅力に映らなくなっていきました。働くうえで自身の存在意義を疑問視する時間が増えていき、悪いところばかり目に付くようになっていきました。

どうやって辞めるのか

結局、縁というものは生もので、メンテナンスをしなければ悪い方向にどんどん進んでいきます。しかしメンテナンスは、自分だけでするものでなく、相手があってこそのものです。お互いに同じ会社で出会ったことに感謝して、目的や価値観の違いなどを譲歩しあうことができたなら、メンテナンスが行き届き、長続きできるかもしれません。
結局、価値観の共鳴ができた仲間とは、より強い仲間意識を持ちつつも、いつだれが最初にやめるのか、順番はどうなのか、そういう意識だけになっていました。

残された仲間に最低限の迷惑が掛からないよう、守ってあげられるところは守ってあげて、守り切れないところは謝るだけになりました。

どんどん最低限になっていってしまうわけですね。機械のメンテナンスがそうであるように、人間関係の構築維持にはエネルギーが必要。エネルギーや時にはお金も必要になるでしょう。しかし、そういうものにエネルギーを割かず、省エネルギー運転になっていきました。

何が残っているのか

世の中にはいろいろな人がいて、今まで自分が働いてきた環境というものは、その世の中のごくわずかな側面しか見ていなかったんだということに気づけました。また、価値観の違いを吸収するために経営ビジョンとなるものが存在していたことにも気づけました。

また、自分がもし経営する側になったとき、そのようないろいろな境遇や価値観の働き手たちをどうまとめていくかを考えることは、人材の確保や定着率の向上に長期的に見て一番重要なポイントなんだとわかりました。確かに給与面や福利厚生面、労働条件などもあると思います。
しかし、会社に来て共鳴できない仲間たちと8時間を過ごすのですから、これらをどうやってフィッティングさせるかは、お金や労働条件の仕事ではないわけです。各々があちこちを向いて、利己利他のバランスがいびつになり、他責を繰り返している状態では、会社は絶対に前に進みません。
今回、金額にせよ、労働条件にせよ、むしろいい環境でした。それでもやめてしまったということはそういうことだったんだと自分の中では結論付けました。

こういった学びが残ったかなと感じています。

辞めるということは

やめるということはスタートでもあります。また、そこまでで得たものの蓄積を、次で必ず生かしたいと思う転換点ということにもなります。やめてしまうことは簡単ですが、今回は結構長いスパンで限界を超えても会社内外を観察してきました。自分の心の中にも何度も潜っていきました。

「やめるからには」という気持ちで、次の目標や人生観についてしっかり生かしていきたいと思います。